青色 LED の発売 – 全世界に届いた小さな発表
青色LEDの量産準備が整い、1993年11月、ついに青色LEDの発売発表の日がやって来ました。発表はホテルの会議室を借り切って大勢のメディアの前でプレゼンテーションをするような華やかなイベントではなく、ただのイベントでした。代わりに、日亜化学工業は日本経済新聞社の徳島支局に取材を依頼した。当時、日亜化学工業は世間では全く知られていない会社でした。当社は年に一度「日本一夏休みが長い会社1」として新聞、週刊誌、テレビ等のメディアで紹介されます。こうして日亜化学工業は世間に知られるようになりました。また、日亜化学工業は当時、田舎であった徳島で従業員数百人程度の化学会社であったため、単に日亜化学工業が革新的なLEDを開発したと発表しても信じてもらえないのではないかと懸念していました。
したがって、日亜化学工業は、「従来の LED の 100 倍明るい青色 LED を発売する」という革新的な発表が誇張ではないことを示す必要があり、以下の点を念頭に置いて準備しました。
- 発表当日は資料や写真を見せるだけでなく、ライトアップできるサンプルを多数用意しなければなりません。
- 製品カタログには、1 つだけではなく、多数の青色 LED を点灯させた写真を掲載する必要があります。
光半導体であるLEDは、ロジック半導体に比べて説明が簡単で、明るく光っているのを見れば価値が分かりやすいため、「光る」製品を用意することが最優先でした。
1993年当時のLED業界では、顧客の細かな要望に応えて仕様を決めたカスタマイズ製品を多くの企業が開発・受注していました。青色 LED の販売に関しては、日亜化学工業はマーケティングの観点に重点を置き、幅広いアプリケーションをサポートするために必要な仕様を社内で検討しました。そこで日亜化学工業は青色LEDを標準品として販売することにした。
こうして、日亜化学工業初の量産型輝度1000mcdの青色LED「NLPB500」が発表され、日亜化学工業の会議室で会見が行われた。これが、このブログ シリーズの最初の記事の冒頭で述べた「100 倍明るい青色 LED」につながりました。 (当時、他社の最も明るい青色LEDは10mcdでした。)
当時の日亜化学工業の主力製品である蛍光体の製造に使用されていた焼成炉は高温になるため、夏場の稼働には適しておらず、また、年に一度はメンテナンスのため停止する必要がありました。従業員の一部は稲作農家としても働いており、稲刈りが8月中旬の夏休み期間と重なったため、夏休みは地元の夏祭りの1つであったことから3週間程度だったとも言われています。リオのカーニバルと並んで有名な「阿波おどり」が8月中旬に開催されると、従業員は興奮してじっとしていられないほどでした。また、創業者は70歳を過ぎてからアフリカのキリマンジャロに登った登山愛好家でもありました。現在では当時に比べて年間休暇が増えている一方、社員数も増加しており、夏休みは1週間から10日程度となっている。 。
図1. 日亜化学工業初の量産型青色LED「NLPB500」の製品カタログ